コラム アウトドア(ギア)が好き(加筆あり。)
ども、しゃくれーです。
今回の記事(コラム)は、自分の備忘録みたいなものです。
なので、いつも以上に面白くないと思いますよ。
先日、8月8日(パパの日)に父が他界しました。
昨年の夏まで、一緒に仕事をしていましたが、仕事中に貧血で倒れ、精査したところ消化器系の癌がみつかり、癌発覚から3日後にOPE。癌の性質が非常に悪く、進行も早い癌でありました、精査した時点で転移も疑われていました。しかし、手術はあくまでも胃を含む消化管の部分切除術を予定。が、開腹後、リンパ、膵頭、十二指腸、肝臓、など複数の臓器への転移が確認され、術式もPDに変更となり、約10時間に及ぶ手術となりました。実際、インオペと判断されてもおかしくない状況だったと認識しています。
父のOPE中、私は病院内で普通に仕事をしていました。
付き添いは父の奥さん(私の母ではないです。職は看護師。とてもやさしく良い人です。)がしていたからなのですが、突然、院長からOPE室に至急来いと私にコールがありました。
この時私の頭にあったのは、他の患者の術中写真(臓器の写真)の撮影依頼かな?とか割と安易に考えていました。(私はもとコ・メディカルで現総務課のヒト)
術衣に着替え、OPE室に入り、目に飛び込んできた全身麻酔で眠り、開腹状態の父。このような状況には慣れていたはずなのに、軽くめまいがしました。膝が笑います。図らずも父の腹の内を見てしまいましたよ。そして、担当医師から、手術中のインフォームドコンセント。最低限とってインオペにするか?その場合は、化学療法(抗がん剤)に切り替える。だが、ステージ4に達しているのでいずれにしても予後はあまりいいとは言えないと。
OPE室を出て、院長と共に父の奥さんにざっくり説明。OPE続行希望と。意向を執刀医師に伝える。そこから、かなりの時間が経過しope終了。
まだ眠った状態で、recovery roomにはいる。覚醒すると痛みと悪寒を訴えている。
痛み止めはかなり使っていたので、術後の貧血と臓器の摘出によるものだろうと。
私も小学生の頃に腹膜炎のOPEは経験はあるが、こんな感じではなかったなとビビる。
少しすると落ち着くとの事。
術後1か月が経つも持病のDM(糖尿病)もあり余り調子良くない。回復も遅い。
抗がん剤の治療もこの調子では開始できないとの事。
入院して2ヶ月、抗がん剤が始まる。すると副作用もてきめんに出てきた。
でも、腫瘍マーカーも下がり効果も出ているようだ。
退院も見えてきたかに思えたが、副作用が強く薬を変更。
2クールが過ぎた頃、外来ケモに切り替わることになり、父念願の退院。
自宅にお見舞いに行く。また一緒に働きたいと言ってくれた。
孫と温泉にも行きたいと。
この後、体調の変化が激しく短期の入退院を繰り返す。
今年の2月下旬、父の体調も少し安定した為、次男坊の七五三祝いを行うことに。
このまま、奇跡の回復をしていくとかと思ったのだが、残念ながらそれはなかった。
それからまた、2ヶ月が過ぎた頃には抗がん剤の治療もむなしく、癌の再発と転移がみつかる。癌の侵攻が早くなっている。
春になり、父の奥さんの意向で新たな治療方法を試すべく、当院より大きな病院へ転院する。僕的にも最後の希望を賭けての転院であった。本当に。
そして、少し経った頃、形見分け。これは以前のブログにも書いたから割愛。
終末期となり、父が「死ぬなら自宅が良い。妻と一緒が良い。」と担当医に懇願し、半ば無理やり、父の希望を叶えるべく、退院に向けたチームが組まれ、8月7日に自宅への退院予定となる。
ものすごく早かった。プロの意地を感じた。(。-`ω-)
僕は、前日の6日に無理やり仕事を休み、父に会いに行くことに。
会いに行かないと後悔しそうな気がしたので、父の奥さんへ連絡する。
急遽、6日に退院することになったと伝えられる。
在宅の準備は、ほぼできたが手伝ってくれると助かると言ってくれたので、父の自宅へ僕の家族共に行くことに。
急遽1日早い退院となった意味を察したからだ。
介護タクシーの運転にかすれた声で文句を言いながら、家に帰ってきた。
元救急隊長としてのプロ意識を感じた。(; ・`д・´)
ケアマネさん等から介護用品についての説明を受けたのち、訪看さんと奥さんが在宅レシピの確認と奥さんの手技チェックがはいる。
こういう時、父の奥さんが看護師でよかったと心から思う。
落ち着いたところで、父から、Nikonのデジイチを受け取る。
これでたくさん写真を撮ってくれと。
前妻である僕の母にも、見せてやってくれと。
そして、母に「苦労をかけた。ゴメン。」と伝えてほしいと頼まれる。
孫と一緒に写真を撮る。
父からは色々貰った。本当に最後になって色々貰った。道具以外のモノも。
僕の道具好きなところや、こだわるところは、祖父と父から受け継いでいるものであるらしい。
たくさんの道具。僕に譲ってくれたもの。気持ち。
悲しいほど、嬉しくなかった。
とても、切なくなった。
この日、僕は子供には見せられない顔をしていたのかもしれない。
特に語り合うこともないまま、また近いうちに来ると約束して帰った。
今度来るときには妹一家も連れてくると伝えた。
2日後、父は息を引き取った。
2日前のあの日に戻れるなら、最期に「ありがとう」と伝えたかった。
最期に、道具自慢しながら一緒に飯食いたかったな。笑いながら。
65年の生涯を終えた父は、最期まで頑固者でした。
「ありがとう。お父さん。またな。」
以上 です。
ここからは、加筆です。
少し落ち着いてきたので。
上の文章も少しだけ変更しました。
父の治療に携わってくれた方々にありがとう。
これを読んでくれた方、本当にありがとうございます。
父の死というものが葬儀、火葬を終えても、まだ実感がわきません。
まだ、電話をしたら普通に出てくれるような気がしますし。
でも、LINEを送っても既読にはなりません。
大好きな孫の写真を送っているのに。
病気に苦しむ姿はもう見たくありませんが、また会いたいです。
実際、近くにいるような気もしますし。((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
父が定年退官後、4年間ほど事務として一緒に働きました。
父は夜間受付のみの非常勤ですが。
僕が過労で倒れてしまったとき、診療代まで父が支えて連れて行ってくれました。
その時は気恥ずかしがありましたが、今では良い思い出です。
親との関係って難しいものです。
父の分も母を大切にしたいです。
父の面倒を見てくれた、奥さんにも感謝しかありません。
大切に思える人がたくさんいるのは幸せなことだと、今回の件で痛感しました。
また、大切なヒトを大切にするということの難儀さも痛感した1年でした。
皆さんも家族を大切に!!(´ω`*)
ではまた!